認めたくないものだな

日記。

いつもの土曜日。
オランダ戦は前半と後半で動きに差があってよかったな。
デンマークに引き分け以上でいけるらしいし、もしかするともしかするかも。

おしまい。



 

 

 

これでは寂しいので意味のない考察を。
全く意味はないので時間を無駄にしたくなければ無視するのが一番だ。



今回は「リア充」という言葉について考えてみる。

 

リア充とはリアルが充実している状態を指し示す。
この場合のリアルとは当然現実世界のことであってこれと反比例する世界のことではない。

では充実とは何か?
この問題は主観では存在しえない。
一昔前の「リア充リア充という言葉を知らない」という流行り言葉を借りるとすれば評価軸を主観にするとリア充は存在しないことになるからだ。

このことよりリア充であるという評価は客観でなされるものだということが分かる。
では我々はどういった人物をリア充と認識しているのだろうか?
よく誤解されていることだが彼氏・彼女がいるということは評価の軸とはならない。
昨日までリア充で今日別れたからリア充でない、などと考えているのは主観が入っているので上記の前提に矛盾するからである。

ただし全く的を射ていないわけでもない。
付き合うということができるという状態はリア充であるからである。要するに※である。

実際には充実しているとは様々な側面を持っているので中々に評価は難しい。
しかしこの側面には行動が伴っているという事実が全てに関係している。
要するに何かしている、このこと自体が充実の証なのである。

主観では語れない以上一人で遊んでいてもそれを見る人がいない、すなわち家に引き込もっているのは充実とは言えない。
バイトをしていることは人がその仕事を評価して金を出す以上充実である。

とはいえリア充にも1日くらい何もない日があるはずである。ここではその3倍の値をとって以下のようにリア充を定義する。


リア充とは「学校・仕事・遊び・バイト・その他の用事が何もない日が1ヶ月に4日未満である人」である。

ニートは毎日何もすることがないのでリア充ではない。
部活やバイト、ショッピングに忙しい人はリア充である。

すなわちこれを読んでいるあなたはリア充であって私はリア充ではない、そういうことである。

筆者の涙をもってこの考察を終えたいと思う。

泣いてないけどさ。